私たちは、ヒトとして生まれ、
人間として生きる。
または、生きざるを得ない。
そして今日も人間として生きている。

1.ハーズバーグの彼方へ
出典;仕事と人間性 フレデリック・ハーズバーグ著 北野利信訳 1968年東洋経済新報社

人間、「やる気」があれば多少の、いえ、相当の困難は乗り越えられます。そうして、人も組織も成果を上げて成長していきます。
不撓不屈です。「生産性は姿勢にあり」です。あきらめない限り、心が折れていない限り、人間の夢は決して消えるものではありません。
アメリカのフレデリック・ハーズバーグがその著書『仕事と人間性』で『動機付け・衛生理論』を提唱したのは1966年のことです。当時はまだアメリカのライバルとしてのソ連が存在していました。いつの時代でも人材の活用が価値を生み出します。古代の王から現代の経営者まで、それが最大の課題であり、頭を悩ましてきたことです。
しかし人間というものは、生産性を上げるために効率を追求しすぎると、かえってやる気がなくなって、生産性の低下をもたらすという、やっかいな存在です。
ハーズバーグは、人間、何事につけても「良ければ満足」「悪ければ不満足」というように連続した単純なものではないことを証明しました。すなわち、
① うまくいかなくてもさほどではなく、うまくいけば「やったぜ!」と、満足する「動機づけ要因」。
② うまくいってもさほどではなく、うまくいかなければ、とっても不満な「衛生要因」(保健所か安全衛生のようなイメージで、あまりこの訳はピンときませんが ・・・)。
そのように2つの要因があると言います。
動機付け要因は、図表では上のほう、「達成」「承認」「仕事そのもの」「責任」「昇進」「成長の可能性」です。
衛生要因は下のほう、「会社の政策と経営」「監督」「監督者・同僚・部下との関係」「労働(作業)条件」「給与」「身分」「職務保障」「個人生活」。
それらは、人事・労務の場面で、ひとつひとつ、思い当たることです。
ここに「給与」があることに注目です。
「あんなに ・・・、(無理してまで)処遇してきたのに、どうして、社員達は期待に応えてくれないのだろう」「あまつさえ、あの社員は、なぜ ・・・ 私を裏切ったのだろう ・・・」
そのような苦い思いを経験された経営者は多いことと思います。

2.アダムとアブラハム-西欧思潮における人間の2次元性
「汝その妻の言葉を聴きて~食らふべからずと言いたる樹の果を食ひしに縁(よ)りて~汝は一生のあひだ労苦(くるし)みて食を得ん~汝は面に汗して食物を食ひ、終に土に帰らん」(旧約聖書-創世記)
「労働」は人間の原罪に対する「罰」であると言う考え方があります。だから、そのような考え方を前提とする社会では、その義務を終えて会社を退職することは、ハッピーリタイアです。
(その後、実際に聖書を全部読んでみると「労働は原罪に対する罰」というのは、一面的であったことがわかります。)

ハーズバーグは『仕事と人間性』の緒論から最終章に至るまで、「アダム」と「アブラハム」を象徴として人間の2次元性を語っています。これは別に宗教がかったことではなく、むしろキリスト教文化圏の伝統のなかで生まれ育った者として、真摯で尊敬すべき態度であり、また有効なことと思います。
アダムは智慧の実を食べて、生きていく「苦しみ」を知りました。そして環境よりくる痛みを回避しようします。その面では単細胞のアメーバーと同じです。
罪を犯して(それはいったい、何の罪なのでしょうか? ・・・ 深い)、
『お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。』
『顔に汗を流してパンを得る。』
そう神様に言われて楽園を追放されます。それは「労働」を知ったということです。

アブラハムは追放された場所から神を知ろうとすること、精神的成長を、そして「神」を回復しようとします。
『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。』
-アブラハムは、主を信じた。主はそれを義と認められた。
そうして「思考」を必要とし、「精神的成長」や「自己実現」を求め、「自分の存在」を拡大しようとします。まるで、憑かれたように・・・

イエスならば、そのような人間存在を、その背理も含めて一言で表現してしまいます。
「人はパンのみにて生きるにあらず」(しかし、同時に「パンがなければ生きられない」)
さすがにキリストたるイエスは、神のひとり子、少なくとも向こう側から来た『人』であるためか、ハーズバーグの人間の定義には用いられていません。
さて、
「知恵のない物(動物)」
→ 「知恵のあるヒト」
→ (苦しみ→回復指向)「精神をもつ人間」
→ ・・・・ 「神」

このような図式は「神に近づけば近づくほど良し」とする「欧米人」らしいところです。
宗教だけではなく、マルクスの「疎外された労働」も同じ土壌からのものと思います。
さて、それは当然のことでしょうか?

3.アブラハムと鉄腕アトム
アブラハムには長い間、子供がありませんでしたが、100歳になったとき、神が息子を与えてくださいました。そして、あるとき神は
「山にいき、あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、全焼の生贄としてわたしに捧げなさい」
(こういう・・・家父長と羊の群(そして番犬)との関係のような感覚が、草木が生い茂る山でタヌキやトトロと暮らしている(と思っている)宗教好きで不信仰な東洋人には、ついていけないところです。)

神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。その時~
「オジサン、・・・ 何しているの?」
東洋の一国、日本から飛来した鉄腕アトムが、問います。
「いや、ま ・・・ 神様に言われたもんだで、息子を殺そうと思って・・・」
「息子さんは、オジサンにとって、とても大切なものではないのですか?」
「そりゃあー大切ださ。儂の命より大切だ。だから殺して捧げるんだべよ」
「オジサンも ・・・ 壊れているんですね(どうもこのところ、壊れた人間が多くて困る)」
「るせい!ロボットなんかに神様がわかってたまるか!
ロボットなんかに ・・・ 人間の気持ちが ・・・ わかって ・・・ たまるか ・・・」
アトムのように、問うてはいけないことなのかもしれません。しかし、宗教好きで不信仰な東洋人としても、わからないところです。

4.過度の崇拝 
アブラハム的動機付け要因は、アダム的衛生要因の上位概念(上部構造と言っても良い。)ではあっても、優位概念では決してない。私は、そう思います。
「アダムの崇拝が、アブラハムの喪失を招くこともありえる」とハーズバーグは言います。
それは正しい。
ヒルズに住んでいても、○億円の可処分所得を得ていても、本来、「慣れる」そして「欲をもつ」人間に最高・最適な環境などというものはありません。生命の次に大切だろうとも、さまざまなものを買えるとしても、お金で無罪は買えません。ましてや持続する満足は ・・・。200億円「儲ければ、勝ち」で終わりではなく、次には500億円が欲しくなるものです。200億円から500億円への欲求、それはもはや、衛生要因ではありません。
そしてアブラハムの過度の崇拝は、前述の「アトムの問い」のようにアダムの喪失にもつながるでしょう。

5.人間の「独立した二つの側面」について
ハーズバーグは

  • 人間は二重性を備えている。
  • その二つの側面は本質的に独立している。
  • 二つの側面が反対方向に作用する欲求体系を備えている。
  • 一側面の欲求に応じても、他側面の欲求にほとんど効果をもたない。

としています。
(そうでしょうか?)
それ故、人間には「彼はどれだけ幸福か?」と「彼はどれだけ不幸か?」と別個の問いをしなければならないとしています。なかなか深みのある考えです。
その例として、
飢えかけた芸術家に職務満足について質問。
○ 答え「いま自分のしていることは好きだが、衛生には、はなはだ不満である」
さて、好きなことをしていることについては満足で、生活にはなはだ不満である、その彼は、自分の作品に満足しているでしょうか?
人々は、その作品に感動するでしょうか?
肉体を忘れた高い精神など、おおよそ、ろくでもないものです。

では、飢えかけたフリーターに職務満足について質問。
○ 答え「いま自分のしていることは好きだが、衛生には、はなはだ不満である」
「ほう・・・好きなことやっていて、言うじゃないか。君の代わりはいくらでもいるからね」

6.衛生要因としての「給与」 
ハーズバーグは、「給与」を動機要因ではなく、「理論的基盤から」不満ないし衛生要因と分析しています。
研究の結果、「給与」が上がって嬉しい人はいました(研究しなくてもそうでしょう)、しかし、その嬉しさは多くの場合長続きしません。逆に「給与」が下がればその恨みはとても長く尾を引きます。悪いときの長期の不満と良かった時の満足の短さというパターンでは、確かに、典型的な衛生要因と言えます。

昔、春闘の感想としてこんな句を作りました
「ベースアップ 三日経てば 既得権(字余り)」

「みんなで渡れば恐くない」ではなく、みんなでアップすれば・・・集団的労使関係は別として、個人としては「あたりまえ」になります。「あたりまえ」のところに満足=「ありがたみ」は、じきに、なくなっていくのは必然です。
人事考課付きのB評価定昇は、上位にAもSも、下位にCもDもあるので「あたりまえ」ではありません。かつての公務員の自動昇給・昇格は「あたりまえ」の極みです。
上がって「あたりまえ」という意味では、普通に考えると全く逆の性質である「歩合給」が動機付けにならない場合が多いということも理解できます。それは、労働債権がたやすく交換可能な狭い短期的業績達成のそのつどに決済されているため、個人としての達成の満足はあっても、会社から「歩合給」自体をもらうことについては、「あたりまえ」であるからでしょう。

7.あたりまえで良いわけはない
さて、「あたりまえ」なものに、差をつけることは、意味がないことでしょうか?
だから「ハンターイ!」すべきことでしょうか?

「なぜ俺の処遇があいつより下なんだ!」
それを怖れて、同じにして、まるく治まるわけではありません。「オレは優しくて良い上司」と思いこむのは勝手ですが、そうして部下に尊敬されている上司はいません。

「なぜ俺の処遇があいつと同じなんだ!」
そうなります。それは同じコトなのです。

「良い仕事をした。している。」そう思っていた者の仕事は、どこに向かうでしょう。
水低きに流れる。
そこに水タンク(能力の蓄積)も噴水(行動能力の伸長)もありません。

「わかりえないから…」それは、人事考課の技術的なことにすぎません。
(一番わかってほしくないのは、それを言う人です)
さらには、技術的なことだけではなく「成果」を真面目に考えていないからです。「事業目的」を、「仕事の目的」を理解していないからです。

「主観的なものになるから」
さて、では「客観的」が公正でしょうか。頭を使っていない、そしてマネジメントとしての仕事をしていない「客観的事実」とは以下のものになります。
→ 学歴(4大卒としてもピンからキリ)
→ 資格(働く前に受験して得た、1級とか、2級とか…)
→ 職歴・勤続年数(人材・人財・人在・人罪を含む)
→ 年齢(一部の人だけ給与や地位があがらないと「かわいそう」だからと惻隠の情・・・。
しかし、それは部下と顧客と財務を「かわいそう」にすることでしょう。)
→ 性別(女だから、男だから。だから何なのでしょうか?)等
そして「満足はしていないが、とりわけ不満ではない」という「民主主義的」な組織のできあがり。痛みへの不安があれば「絶対反対」。
しかし、自分の仕事に価値を見いだすことに迷えば、苦しみである労働の対償(つぐない)は「貰ってあたりまえ」である給与の「損」と「得」になります。
そして、何をしても、しなくても、貰う給与が同じであれば、本人にとって費用対効果的には「仕事をしない」ほうが「得」になります。

一方、良く働いている者にとっては著しい不満が生じていきます。
何のための、何に対しての職務満足でしょうか?
仕事をしている以上、第一に満足させるべきものは外にいる顧客です。それに向かう成果です。

8.給与と賃金は違う 
「賃金」「給与」「給料」と言う単語は、一つの文章のなかでも、ゴロにあわせて無反省に使われていることがあります。
「どっちにしても(何かして貰う)金だろう」と思われるかもしれませんが、与える方も人間ですし、貰う方も人間ですから、そう簡単なものではありません。

「これ私が編んだの ・・・」ともらう同じセーターかマフラーでも、「好きな彼女」からと、「嫌いな女」からとでは、全く違うものでしょう。

① 給与とは、定められたとおりに与え給わるものです。(例:公務員給与法)
② 賃金は(生きている人間の)労働の対償・対価です。(例:労働基準法)
③ 給料とは、割増や控除が計算され、実際に働いた人に「ごくろうさん」と手渡されるありがたいものです。
「だからお給料と言います。お賃金やお給与とは言いません」- 楠田 丘

どうか、会社が社員の就業に関して定める就業規則のなかの賃金に関して定めるところは「賃金規程」と称していただきたい。そのように心から思います。
「給与規程」では、貰ってもあたりまえで、ありがたくはないわ、上がっても3日たてば忘れるわ、下がると一生根にもたれるわ、良いところのない不満要因規程です。
これは精神論でしょうか?
私は、少なくとも人事政策の要と思います。
賃金は貰うものではありません。
外へ出ていって稼いでくるものです。
外には、顧客がいます。
(生きている人間の)労働の価値である賃金とは、家族を養い、顧客に対して仕事をしたと証明である、ありがたいものです。
ハーズバーグが衛生要因-不満要因であるとした「給与」は給与であって、賃金ではありません。
「翻訳の問題だろう」と思われるかもしれませんが、ハーズバーグ自身も「給与」と「付加給付」という言葉を使い分けているので、的はずれなことではないと思います。

9.報酬と投機
さらにもう一歩。
「アカンタビリティー」とは、具体的で絶対的な責任・・・・永遠の天国と地獄。
昔の訳語は「成果責任」、今の一般的な訳語は「説明責任」です。
そこが成果主義の神髄です。
「レスポンスビリティー」は、責任感、精神的、アカンタビリティーの一歩手前です。
しかし、(生きている)人間を重視するなら、その可能性を重視するなら、そこには「期待」と「役割」と、さらには「投機」があります。
人間とは、そのようなものです。
ここに、ほんとうの成果のために、成果主義をも超えていく鍵があります。

10.ハーズバーグを超えて
P・F・ドラッカーの主著といえば『現代の経営』です。この上巻において「自己統制と目標による管理」が初めて説かれたとされています。
しかし、その神髄は下巻にあります(その秘密の法門は、下巻の文底に沈めたり・・・まるで日蓮のよう)。
そこ(第20章「人を雇うこと」)に、凄いことが書かれてあります。
「『汝の額に汗して糧を得よ』は、アダムの堕落に対する神からの罰であるとともに、楽園を追われた日々を耐えられるものとし、意味あるものとするための神からの贈り物、祝福でもあった。」

「罰」であり「祝福」である。

それは、ハーズバーグが人間をアダムとアブラハムとに分けて捉え、努力し、達成した研究成果そのものを戦慄させる言葉です。
あらためて、その発刊年月日を見ると1954年。
ドラッカーが45歳ぐらいで書いた『現代の経営』のほうが古い。名著とはかくあるものか。
ハーズバーグにしてみれば、人間(アダム)の2面性を、人間からアブラハム概念を抽出して分析したと言うことなのでしょうが・・・

「なんだ? ハーズバーグを超えるって、ドラッカーのことか?」
「いえいえ、それだけではありません ・・・」

アダムのままに、労働あるいは仕事は
罰であるとともに祝福

そのような凄いことを言えるドラッカーのような偉い人とハーズバーグが分析対象とした人間の平均的な姿とは、どこが違うのでしょうか?

冒頭の「満足要因と不満要因の比較図」を、単純に、縦・横に割って考えてみました。

上-動機(満足)要因→自分に関するもの
下-衛生(不満)要因→他人(ひと)または人的な環境(多くの場合、抗しえない自然的環境ではない。)
左右-それぞれの「上手くいかなかった不満」と「上手くいった満足」

それを、あえてタテに読んでみます。
<普通の人-一般的なパターン>
① 道を歩いていて、石にけっ躓いて転べば、周りを見渡して、自分の頭を掻く。
赤ん坊も、勝手に転べば「つらっ」としている。
② ホームで他人に足を引っかけられて、ひっ転ばされると「何すんだ。この野郎!」と紳士・淑女も思わず怒る。
赤ん坊も、同情してくれそうな他人がいれば、泣きわめく。
③ 自分で獲得したものは、忘れない。
④ 他人の恩は忘れがち。3日経てば既得権。
これが、平均的で一般的な姿でしょう。

<偉い人-成長・超越パターン>
① 自ら転ぶことを恥とする。劉備玄徳、髀肉の嘆。
② 他人の悪意に影響されない。泰然自若。
③ 自分だけで獲得したものなどはないと知る。報恩感謝。
④ 他人の恩をこそ忘れない。吾、足ルヲ知ル。
このような人物は、成功するでしょう。
いえ、すでに、たとえ市井の達人であっても、名もなき隣人であろうとも、自己実現していく成功者であり、勝利者です。「勝ち組」とは「克ち組」のこと。
誰に対して?自分に対して。自分の人生に対して。

<ダメな人-過剰パターン>
① 自分の失敗は気に留めない。または逆に、必死になって隠蔽しようとする。
② むしろ、失敗は他人や環境のせいにする。
道を歩いていて、石にけっ躓いて転べば、「誰だ!こんなところに石を置いた奴は ・・・。
訴えてやる!」
③ 金・欲・出世の亡者。業績求めて成果なし。権力の追求、本来の目的を忘れるほどに・・・。
④ 決して現在の境遇に満足はしていないが ・・・ しかし!自分の既得権にはしがみつく ・・・。
そこに、成功はないでしょう。
自分に自信がもてない者こそ、過剰にその存在に承認を求め、承認されないと低感情が大きい。そして反対行動を生み、失敗から破滅へのスパイラルに嵌ります。

11.コンピテンシー・レベル
コンピテンシー(成果実現行動スタイル)からも考えてみましょう。一般的なパターンの人間の行動が、「保身」と「自己のための飽くなき欲求」を契機に過剰になれば、それはマイナス・コンピテンシーです。破滅の道です。
マイナス・コンピテンシーは動物性ではなく、人間性の自己に向かった貪欲な過剰です。

自己過剰 ← 0 → 自己実現過程 →//→ 自己超越
(転落)

12.「私風」どうすれば良いか
『仕事と人間性』におけるハーズバーグの「どうすれば良いか」は
① 麻薬のような衛生要因→不満要因の、不断のかつ「慎重」な防止。
ただ厚遇すれば良いというものではありません。
② 過失よりも創造性を優先させて、加点主義など、動機要因を重視するマネジメントでやる気と生産性を向上させる。
それは、まことに、そのとおりです。人事マネジメントの基本。

それをもう一歩、進めたいと思います。

<ハーズバーグの動機付け要因>-自分のこと
・ 達成 ・ 承認 ・ 仕事そのもの ・ 責任 ・昇進 ・ 成長の可能性
<ハーズバーグの衛生要因>-他者と環境
その最大のものは「会社の政策と経営」です。

◎ 事例-ある非営利企業の若手主任との対話
「あなたが今期目標としていた新規事業への取り組みは、どうなっていますか?」
「上が、まだ方針を出してくれないので、手がつけられません。」
(嗚呼・・・これは「→不満要因」だ。「会社の政策と経営」だ。
「上がアホやから、野球がでけへん」だ。
・・・ 昔の阪神タイガースだ。しかし、それで引いてたまるか。)
「上って・・・誰の ことですか?
あの自宅を担保にされて、しかも無報酬で働いている、非常勤トップの理事長のことですか?
それとも、あの銀行出身の常務理事のことですか?」
「・・・・・・」
「確かに、経営判断するのは、あなたの役割ではありません。しかし、新規事業について、顧客が誰で、何が成果で、地域に必要な不動産があるのかないのか、それらにかかる費用がいくらで、予想される粗利益がいくらで、何よりも・・・そこで働く職員がどのような仕事をなすべきか。それがわかる人は、誰ですか?」
「・・・・・・」
「新規事業が実現した暁に、法人の歴史に残るのは、決断して、組織を実行に向けさせた理事長でしょう。でも(誰もが認める)ほんとうの栄光は、誰のものでしょうか?」
「わかりました。もうそれ以上言わないでください。要は、私が主体的に考えて『提案』を上げていけば良いのですね。」
「そういうことです。」

衛生要因・不満要因・環境は、「やったぜ」という達成感があるものにも、人から認められることにも、やりがいのある仕事にも、責任も、自らの成長にさえも・・・すなわち、動機要因に転換が可能です。

環境(仕事・課題)を自分に止揚して、それを自分に「取り込む」のです。
(「仕事に取り組む」ではありません。それは、あたりまえです。)
事例のように「会社の政策と経営」を、それに対して「提案」して「達成」に取り込む。たとえ「達成」はならずとも「仕事そのもの」には転換されます。
もちろん、その「達成」は、考課され、賃金で配分され、メッセージされる。それは、すでに給与ではありません。

13.「給与」が「賃金」になるとき 
ハーズバーグの「動機づけ要因」そのものを見て、上記のことをまとめると次のようになります。
○ 「仕事そのもの」を働く者が価値あるものと実感させるには、目的・存在意義・社会的役割である「ミッション」を明確に示すことが必要です。
○ 「成長の可能性」のためには、個々への期待と個々が希望をもてる、育成ステップとして職業人としての成長を評価する格付け等級を定めなくてはなりません。
○ 「責任」と「昇進」のためには「役割」が必要です。
○ 「達成」のためには、もちろん「目標」と「チャレンジ」と「成果」が必要です。
○ 「承認」とは、相手を尊重した「人事考課」によるメッセージそのものです。

それらを整えたとき、「給与」は労働の対価たる「賃金」になります。

阿世賀 陽一