1.鵯越の逆落とし
NHKテレビの大河ドラマなどを見ていて、小勢が大軍をうち破るシーンは、ついワクワクしてしまう歴史物のハイライトです。
源平合戦の木曾義仲や源義経は、「発想」と「勇気」と「行動力」で平家の大群を打ち破ります。
戦国末期で言えば、織田信長の「桶狭間の戦い」。
最近の説は、これまで勝因とされてきた迂回奇襲戦術には否定的で(迂回奇襲戦術説は義経の「一の谷」や「屋島」の影響かもしれません。)信長は、敵の現状をジャスト・タイムで掌握し、今川方から丸見えの位置から一直線に最短距離で進んできたとされています。
ならばその勝因は、「情報」と「スピード」にあったとするべきでしょう。

2.5万騎vs3百騎
源平合戦と戦国末期、その中間の時代にも小勢が大軍を破り、歴史の流れを決定的にした合戦がありました。それは、建武3年(1336年)3月3日、今の福岡市の近くで行われた足利尊氏の「多々良浜の合戦」です。
以前、NHKの大河ドラマ『太平記』が放送されたとき、「その時」がどのように描かれるか楽しみにしていたのですが、アバンタイトル(オープニング前の解説)で
「鎌倉から京都に攻めあがった尊氏は、新田義貞や北畠顕家に敗れて、九州に逃れた後、その勢いを盛り返し ・・・・」
とのナレーションだけで、あっさり捲土重来して「湊川の合戦」になりました。
この神戸の近くでおこなわれた大戦の後に、尊氏は京都に政権を樹立しますので、これがこの時代の天下分け目の大戦と言われますが、花のごとく散っていく楠正成の姿には見るべきものがあるものの、数(足利方は尊氏の海上10万以上+弟の直義の陸上軍数万騎)のうえでも、作戦面でもワンサイドな戦いでした。

確かに「多々良浜の合戦」は、「小勢が大軍を破る」という劇的展開であったにもかかわらずドラマにはなりにくい合戦であったかもしれません。
その合戦、『太平記』には宮方4~5万騎、武家方300騎とあります。
『梅松論』では「敵はその勢6万余騎」「御方は~300余騎にて大手に向かい、(九州での加勢を入れても)御勢1000騎には過ぎざりけり」とあります。

近畿で大敗した尊氏一党が九州に上陸した翌日、待ちかまえていた宮方の大軍に正面からガチンコしたのです。そして武家方が大勝しました。数は言うに及ばす、奇襲も、地の利も、相手を圧倒する情報もありません。
南朝(宮方)の関係者が書いたという説がある『太平記』では、この奇跡の原因を、突然に吹いた神風ではなく、尊氏の「前世の善因縁」「武運が天の心に叶った」としています。(では、南朝は天意に背いていたと言うのでしょうか?不敬な ・・・)
「天の心」では、また「強風」だけでは、映像として説得力はありません。
足利幕府の関係者が書いたとされる『梅松論』では、この時すでに武家方にも、後の北朝につながる「新しい錦の御旗」が立っていたとされています。
関東で対峙した足利と新田それぞれの陣営の「源氏の白旗」ならまだしも、敵味方共に「錦の御旗」では ・・・・。
今で言えば、代表権のある社長と会長によって会社が分裂したようなものですが、当時としては信じがたい状況であったろうと思います。また、それが現実におこなわれ得る時代でもあったということでしょう。
「錦の御旗」対「錦の御旗」、それはNHKの映像にはなりにくいものでしょう。
さて、それにしても大義名分として5分と5分。では、武家方300騎の勝因は?

3.やる気のない奴は何人いてもダメだ!
「相手にやる気がなかったから」です。
やる気のない兵隊が何人いてもダメだと言うことです。思わず「やる気のない奴は出て行け!」と言いたくなるような話しですが、それが社内の大多数では大問題です。
足利勢に味方した九州の少弐頼尚は「敵は大勢なるも(本当にやる気のある)菊池勢は300騎を過ぎず」と言っています。
ちなみに、この宮方の中心であった菊池氏は、藤原北家の流れをくむと称する武将ではありましたが、『魏志倭人伝』で邪馬台国女王卑弥呼のライバルとされた狗奴国王の「狗古智卑狗」(菊池彦)からくるとする説もあるくらいの地元の古い家系です。鎌倉時代の不遇を挽回するチャンスと見ていました。

後醍醐天皇の根本政策は、院政や摂関政治以前にまだ天皇が親政していた平安初期の王朝黄金時代「延喜・天暦の治」の再現。『古今和歌集』の時代です。
その反面「朕が新義は未来の先例」。その側近の考えは「武士は数代の朝敵である。味方に参ることによって家を滅ぼさぬだけでも皇恩と思え!(北畠親房『神皇正統記』)」。
その新政の経営実態は「この頃都にはやる物、夜討ち、強盗、偽綸旨」。

尊氏は、(源頼朝の子孫が絶えた後の)源家の嫡流である自己の存在目的を「武家全盛の跡をおい、もっとも善政を施さる(『建武式目』)」とし、北条家が独占を始める前の、鎌倉幕府が最も良かった頃に求めています。
どちらも過去の盛時を理想としていますが、過去の時代に未来の政策を仮託するのは、滅びた周を理想とした孔子以来、普通のことであったでしょう。
「延喜・天暦の治」と「武家全盛の跡」、それが両者のほんとうの「旗」です。
さて、どちらの「旗」が「実際に戦うもの」の必要・欲求・希望を捉えていたでしょうか?
組織者としては、この「戦うもの」とは、部下である以上に「顧客」そのものです。

4.宮方の武士
「宮方の武士」のうちの何人かの武将が「勝ち馬に乗ろう」と軍配を一振りしただけで、少なくても歴史に室町幕府はなかったことでしょう。
しかし「宮方の武士」というこの矛盾した言葉が、端的に全てを語っています。
「錦の御旗」でイヤイヤ動員された鎌倉恩顧の、約5万人の武士の目前には、敵方にも「錦の御旗」が翻っていて、しかも敵の大将は「第二の頼朝」です。

* 根本政策が良ければ、それだけで経営が良くなるものでもありません。足利幕府のほうも、経営ミスや新しく生まれた矛盾を解決できなくて、その後は「観応の擾乱」等、もうゴッチャゴチャ ・・・、その弱みは「応仁の乱」にまで至りムッチャクチャ。

「動機づけ-衛生理論」で著名なフレデリック・ハーズバーグは、上手くいってもさほど満足でなく、上手くいかないとものすごく不満である衛生要因の第一に「会社の政策と経営」を上げています。
「宮方の武士」というこの立場からして、その不満は動機(やる気)づけにはほど遠いものであったと考えられます。

阿世賀 陽一